設営中の現場は毎日、更新されていくのだろうか。今回の展示された状況は刻々と変化していく現場の時間を、千葉時代(チバニアン)という磁極の逆転した痕跡を持つ地層の場所性に照らし、想像をめぐらせる内容となっている。77万年前の磁極逆転の出来事は、規模の面でも時間の面でも我々人間を突き放す「記録」であり、美術史や世界史よりも地球史の話だ。目[mé]はつねにこうしたタイムスケールのもとで、人間の日常が原化石的な感性(天変地異)のもとにあることに気づきを与える。とはいえ、今回の展示は2フロアの設営中の現場が細部まで同じという、美術館の文脈を脱構築するような状況をつくっていた。その千葉市美術館が改装中である事実も反映されながら、現実とフィクションとが一体化した臨場感を照射している。タイム(サイト)・スペシフィックな状況がまずはある。
カンタン・メイヤスーは「原化石」あるいは「祖先以前性」の射程のもとで、人間のいない思弁的唯物論について語り、人間の思考による相関主義を批判したことで知られる。祖先以前性について理解するには、時系列に配置された過去から現在への時間ではなく、現在から過去へと後方投射する必要があると述べている。どういうことか。人間のいない時間に対して、それが「~年前」という配置を与えたところで意味がないのはわかる。「祖先以前のものは古い出来事を指示していない」。01 時間的な過去を指示するのではなく、時間意識を持つ人間以前の時(存在)を問題にしているからだ。人類の誕生が約200万年前だとすれば、77~12万年前の千葉時代とはかなり最近のことであり、その地層を「ダイアリー」のように捉えることさえできる。原化石と呼ぶにはきわめて新しいレイヤーだが、目[mé]はこうした「時を刻む」ことを、メイン会場に設営された目盛のない宙に浮かぶ「秒針」のインスタレーションに込めているのだろう。それは一次的な制作者、つまり今回の制作の動機となる作品であり、おそらくは設営中も更新されていく作品(状況内作品)である。しかし、その自然な営みが二つのフロアで展開されることで、偶然性を有限なものにする。時計の秒針も、無限の時間というよりは、昆虫の足のような素材として扱われ、これらがもう一つのフロアでもまったく同じタイミングで秒針を打っていたら...、という想像をめぐらせる。時そのものを素材にするのは神の為せる業であり、むしろ芸術家が時間という意味(意識)を脱臼し、時を刻む物質的なリズムに代えている。これは目の前に現れる作品が、普段は見えない制作中の現場によって裏付けられ、継続しつづける「時」(脈)を内包していることを意味するかのようである。作品は設営中の状況を図解しているのだ。持続する時間、流れる時間に対して、芸術作品は具体的な時の刻みによって物理的な時間に抗う。芸術は死なない。あるいは死なないための時間を発明(設営)している。そうした状況をフィクショナル(リアル)に見せ、現実を思弁的につくりかえる。単なる制作手続きに回収されない時間の厚みは、地質年代に重なり、秒針が昆虫の群れのような時の刻みによる微小で巨大な出来事が、ここでの作者(状況内作者)のコンセプトなのである。それはメタ現実的な映画のセットのようでもある。このような状況をつうじて磁極逆転という化石的な出来事に応えているのである。ただし、それだけではなく意識の古層にも働きかけるところが目[mé]にはあり、「原」化石に触れるところがある。それが同じ状況を二つ作ること(対称性)に現れているのだ。時間は流れるもの、自然はただ一つのものといった固定観念を切断し、同じ川には二度足を入れることができないのではなく、二度足を入れる状況をつくることで、はじめて二度入れないことに気づく状況をつくっているのだ。つまり、誰も経験したことがないにもかかわらず、科学の力によって川(状況)は同じ状態では流れないということを人間は信じてきた。その固定観念を目[mé]はリセットし、同じ二つの「状況」に目を向けることで、「同じこと」と「違うこと」とのあわいを経験することになる。非常にはっきりと同じ状況をつくりあげることで逆に不確かさが増し、わからなくなるのだ。ペンキ缶の跡が丸くブルーシートに付いた数を数える観客、脚立の上で居眠りしている作業員、これらの違いを確かめるオーディエンスの行為は、「時の観測者」(タイムトラベラー)のような振舞である。過去から現在への順序さえ自明ではない。二つのフロアの間で、「時間」さえ操作しうる意識の状況を促し、展示の導線じたいがそのような時間の組み換えを促している。これは現実の因果関係を根本的に問い直す、非常にはっきりとわからない原化石的な感性(地殻変動)であるにちがいないのである。
01 カンタン・メイヤスー『有限性の後で― 偶然性の必然性についての試論』千葉雅也、大橋完太郎、星野太=訳、人文書院、2016 年、40頁
大崎晴地(美術家) 「原化石を見る目」
※目[mé]非常にはっきりとわからない 展覧会カタログから転載
本作は目が"スケーパー"と呼ぶ複数の人々(実際の人数は特定できない)の行為が展開されているインスタレーションである。